【線引きはどこに?】“善意の悪魔”を考える【基準/チェンソーマン?】

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善意の悪魔

Twitterで話題となっていた“善意の悪魔”。
私は最初「チェンソーマンに関係するワードか?」と思いトレンドを開いたもののそうではなかった(“チェンソーマン”という漫画作品では、○○の悪魔と呼ばれるキャラが多数登場するため)。

じゃあ実際のところ“善意の悪魔”とは一体何なのか、見ていこうと思います。

善意の悪魔とは

①自分の善意にのみ基づいて、相手の視点に欠けた“善意の押し付け”を行う様子
②良かれと思ってやったことが周囲のマイナスにしてしまっている状態

を指します。

①と②は微妙に内容が異なるため、この二つが重複する場合、またはそれぞれが独立して呼称される場合があるため注意が必要です。
“善意の悪魔”について語る場合、相手がどういったニュアンスでその言葉を使っているのか早い段階で確認をとっておくと無難でしょう。

また、現在ネット上で論じられている“善意の悪魔”の明確な基準は他にありませんが、
個人的に考える“善意の悪魔”の一つの特徴として、行動の根底に

・“自分の善意が満たされればそれでいい”
・“善意でやってることだから結果はともかく良いことだろう”

これらの認識が潜んでいることも、要件に加えてもいいのかなと思います。
自分の善意に責任が持てない、自分の善意を満たすことだけに意識が向いていて肝心の相手の気持ちを考えられない、

つまり色々な要素の中に“善意”があるバランスの取れた視野ではなく、
“善意”を自分の目の前に置き、それ以外は見るつもりが無い状態。
目の前が“善意”だけなので当然他のものは目に入りにくくなり、視界が“善意”で塞がっているために動くと色々なものにぶつかってしまうが、
それすらも“こっちは善意でやってるんだから、責められるのはお門違い”だという認識になる、
この状態こそが“善意の悪魔”ではないかなと思います。

善意の悪魔にならないために

ただここは本当に難しい問題。
慎重になって“善意”で行動する人間が少なくなると、社会としての漠然とした安心感はより薄れていくのではという懸念の声もあります。
またこれまで“善意”で行動する人間に、救われてきた人も数多くいるでしょう。

個人的には「そうだ、自分の“善”と周りの“善”の基準は違うんだ」
ということを認識し、
自分の思う善行を働く前に客観的に事態を捉えること、
そして行動の結果に一定の責任を持つことを十分に認識することが、
善意の悪魔にならないために重要なことだとは思います。
…が、そこまで手を尽くした上で、それでもなお
善意で行動した結果他人の害になってしまう可能性もあるわけです。

事の発端

“善意の悪魔”が話題になった発端はこちらのツイート。
バス停が台風の風で倒れていると思い立て直したが、実際は安全のためにバス会社が前もって倒しておいたものなので、逆効果だった、というもの。

今回バス停を立て直した行為は確かに安全とは真逆の方に行動を走らせてしまったため、
確かに“善意の悪魔”と呼ばれる結果になってしまったかもしれません。
大きめのサイズの注意の張り紙が貼ってあったため、それが目に入らなかった確認不足が引き起こした“善意の悪魔”と言えます。

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