昔話に及ぶコンプライアンスの波

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昔話に及ぶコンプライアンスの波

「危ない要素をなくして解決…というのもやり方の一つだが、“作品は作品、現実は現実”という割り切った観点を本人に伝える
というのが個人的な感想。

昔話にコンプライアンスを持ち込むことによる影響がいかほどかはわからない。

賛否もはっきり分かれている印象だ。

「“暴力で解決することも選択肢の一つになるんだ”と無意識下に刻まれるのではないか」という声もわかるし、
「それは絵本に関係なく本人の問題」「そうさせないために親や先生による教育がある」という声もわかる。

そこで今回は、それぞれの理由を考える。
まずは“表現を規制すべき”理由から。

“表現を規制すべき”

おそらく暴力描写を規制したい声の中には、
「暴力を規制したい」というよりは
「暴力による解決、という形に対して作中で何も注釈がないままハッピーエンドとして終わってしまう」ことに抵抗のある人がいるのだと思う。

“平和のためとはいえ、殴るのは出来るだけ避けたいが…”的なセリフで示して欲しいという人もいるのかもしれない。

暴力描写それ自体というよりも、“暴力について作中の誰も咎めない”という部分に不安を感じている人もいるのだろう。
昔話が生まれた当時と、現代とでモラルの認識は確実に変化しているため致し方ないところはある。

ゾーニングという問題もあるかと思う。
例えばよく槍玉として上がる“刑事ドラマ”は、暴力や犯罪はダメなものという前提で描かれる。その上で、犯人役を魅力的なキャラにしたり、あえて犯罪を賛歌させたりなどしてギャップを作ったりもする。
しかしそれは“犯罪はだめなもの”という前提を認識しているから生まれる魅力であって、かつ視聴者もそのドラマを楽しめる年齢の頃には、“犯罪はダメなもの”というのは知識として理解し、現実と区別して視聴できる人が多いだろう。

一方で、昔話のターゲット層はどうしても判断能力の未熟な子供になりがちである。
絵本は家や子供向けのあらゆる場所で否応なく目に入る。
とはいえ絵本で見た通りに暴力で何かを解決しようとすると、当然そこは親や先生が注意し正されるのだが、
それでも「あの作品では暴力で解決してたから…」という風に心の中では思うこともあるだろう。
故に、「作品は作品、現実は現実」と切り分けて考えよう…ということを伝えなければならない。

ということで、表現を規制すべき…との理由をみていった。
続いては、“表現を規制すべきでない”理由を考えていく。

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